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2020.12.10(木)
日常生活記事編集

新型コロナウイルス感染症で27日間入院して……


12/9 昨日、無事に新型コロナウイルス感染症の治療を終えて、11/13~12/9までの27日間の入院生活を終えました!
お世話になったのは横浜市立市民病院の感染症病棟でした。

発症が11/10なので丁度1ヶ月の治療となりました。
感染症病棟の個室なので部屋から一歩も出れない入院生活でした。

まず言いたいのが、コロナ禍で逼迫している医療体制を支えるだけでも大変なのに、新型コロナ感染症の患者さん1人1人に丁寧で優しく親身になって対応してくれたり回復にご尽力頂いたお医者様、看護師さん医療従事者の方々には本当に感謝してもしきれません。特に看護師さんには本当にお世話になりました。それと同時に看護師という職はすごく大変なお仕事なんだな、というのも身を持って感じた27日感でした。
看護師さんに対するとリスペクトが1000倍くらいになりましたw
本当にありがとうございました。

この体験を通して感じたことを色々書きたかったのですが、Instagramの文字制限が2200文字みたいなので、ブログ跡地に書きたいと思います。
Twitterでは少し日々の状況を書いてたコトもあるのでそちらも時間があるときにまとめたいと思います。


家と職場の往復でそれ以外は基本引きこもりの生活で感染リスクのある行動はほとんどなかったので感染経路は電車だと思います。
入院に至った経緯ですが、11/10に発熱と咳の症状が少しあり、お仕事を午前中で早退しました。
翌11/11も同じ症状が続いたので、自宅静養していました。その日の夜になって熱が39℃近くまであがり、喉の痛みと、関節痛があり、「もしかしてインフルエンザでは?」と思い、次の日朝一番に病院に行こうと思いました。
翌11/12も熱は下がるどころか症状も悪化して、熱は39℃、喉の痛み、咳、痰、関節痛、倦怠感、頭痛、吐き気など、あらゆる風邪のフルコンプリートみたいな症状でした。特に喉が痛くて、ほとんど喋れない状態でした。
近所のクリニックを受診し、インフルエンザは陰性でした。念のため胸部のX線を撮ったところ、造影に異常が見られたため、武蔵小杉の新型コロナ専門の外来に紹介状を書いてもらい受診し、そこで抗原検査を受け、新型コロナウイルス感染症の陽性との診断を受けました。
その後保健所とのやり取りとなり、自宅静養・宿泊療養施設での隔離生活・入院の3つの選択肢がありました。
私は入院を希望したのですが、今の医療機関の状況を考えると難しいとのことで宿泊療養を選びました。
症状的にはこの日は本当に死にそうで、何か喉を通すと咳と痰でむせてしまったので水分もほとんど取れずに、呼吸困難、手足と顔の痺れ、嘔吐まで加わり、救急車を呼ぼうと思うくらいの強い症状が出ました。
もうこの時点では解熱剤では熱は下がりませんでした。

翌11/13 新型コロナウイルス陽性ということで公共交通機関は使用できないので、専用の車が迎えに来てくれて、宿泊療養施設まで行きました。
施設に入ってすぐ、簡単な検査を受け、サチュレーションが90%くらいで、何もしていないのに息もあがってしまっていること、昨日、新型コロナウイルスの症状が悪化した場合の連絡先に電話しようかと思った旨を伝えると
すぐにお医者様と神奈川県の専門機関とで協議して、緊急入院することになりました。
宿泊療養施設での滞在時間は3時間もなかったと思います。
すぐに救急車が迎えに来て、横浜市立市民病院へ搬送されました。
救急車に乗ったのは初めてだったので、救急隊員の方がとても格好良く見えました。
厚生労働省に基づく入院勧告措置ということで、入院の際にかかる費用は公費負担だったのはありがたかったです。

病院につくと感染症外来から入り、防護された車椅子で病室まで運ばれました。
ただ隔離という名の放置されているだけの宿泊療養施設から、お医者様や看護師さんが常にいる病院に来たことでとても安心できました。
横浜市立市民病院は今年の5月に今の施設に移転した病院なので、設備も最新でとてもキレイで快適でした。
感染症専用の病棟なので全室トイレとシャワー完備の個室で、退院するまでは部屋から一歩も出ることが出来ませんでした。
初日はCTを撮影したり検査と新型コロナウイルスへの研究のためのサンプルとして血液を提供して欲しいということで採血管12本も血を抜かれました。
治療に関する説明、投薬に関する同意書等々色々書類を書いてその日はそのまま就寝しました。
深夜にサチュレーションの様子が思わしくなかったのか、看護師さんに起こされて、緊急で点滴と酸素吸入が始まりました。

そこからは毎日色んな管に繋がれている生活が続きました。
点滴は留置針というプカテーテルを指したままにしておいて、点滴するときにそこに繋ぐのですが、何日かで固まって詰まってしまうのでその度に指し直しで、これがとても痛くて、前腕の血管に指すのですが中々難しいみたいで失敗したりもあったりで、毎日詰まらないように祈っていました。
部屋から出れないのでX線の撮影は部屋まで機械が運ばれて来て撮影したりしてました。

病院のご飯はレストランの食事と遜色ないくらい美味しかったです。

1週間目はCRPも18mg/Lと全身の炎症値も高く、入院初日よりも肺炎も広がりを見せたり、新型コロナの抗体値もあまり上昇せず、あまり状態は良くなかったです。
サチュレーションも85%程度を維持してとても少し動くだけで苦しかったのを今でも覚えています。
2週間目(21日頃)には咳以外の症状はほとんどなくなり、新型コロナの抗体値もかなり上昇してきました。
採血と点滴だけではなく、炎症を抑えるためにステロイドを点滴していたので血糖値のコントロールもうまく出来ずに1日4回のインシュリンの投与もあり、腕が穴だらけになりましたw
ステロイド点滴中は血糖値が暴れ馬の如く乱高下して、大体300-400mg/dLを推移していました。

結局点滴と酸素吸入が終わったのが11/26でした。
PCR検査で新型コロナウイルスの陰性判定が出たのが11/30でした。

そこからステロイドを点滴から飲み薬に変更して、12/5頃から段々と量を減らしていき、
ステロイドを減らしたら血糖も100mg/dL前後で安定したので糖尿病の先生からも退院の許可が降り
12/9に退院となりました。
自分では2週間、遅くても11月中には退院できると思っていたので、まさか発症から1ヶ月も入院するとは……

血糖値の関係で間食が全く出来なかったので、2週間目はどちらかというと新型コロナウイルス感染症よりも空腹と戦っていた気がします……。
3週目は空腹にも慣れましたが、ただトイレ等に行くために少し歩いただけで息切れ、めまい、フラつきがありました。これは結局退院しても続いてます。
血圧も80-60と上がかなり低かったです。

今回の入院で採血や注射をたくさんされたので、今まで注射恐怖症でしたが克服できたかもしれませんw


私の提供した血液サンプルが新型コロナウイルス感染症の研究に少しでも役に立ちますように……。
まだ私自身何か後遺症が残っているリスクもありますが……。

ちなみに新型コロナウイルス感染症というよりかは健康な食生活のおかげで体重は5kg痩せました…
栄養のバランスが良くてあんなに美味しいご飯が据え膳で出てくるのはチートでは?w


最後に…
入院していて、日に日に医療体制が逼迫して行き看護師さんの手も足らずに病院が回っていかなくなることを嫌でも感じることが出来ました。
私のいた感染症病棟も常にほぼ埋まっている状態でした。そこからICUに運ばれた人がいたり、コードブルーの放送も流れたりしていました。
新型コロナウイルス感染症は本当に恐ろしい病気だと身を持って実感したので、今は皆様になによりも感染対策を第一に自粛や警戒、自己防衛などを徹底して最優先して欲しいな、と思いました。
新型コロナウイルス感染症はただの風邪ではありません。恐らく軽症~中等症に分類される私の症状ですらこんな感じで27日間も入院生活を送ったのですから……。
医療現場ももう余裕がありません。新型コロナウイルス感染症でなくて他の病気ですら診てもらえなくなる日がくるかもしれません、緊急性のある手術も出来なくなる日が来るのかもしれません。
皆さんひとりひとりの行動がこの国の未来を守ります。この経験を1人でも多くの人に伝わって欲しいです。


P.S.
入院生活が長かったのと症状が落ち着いてからは意外と快適に過ごせて、ご飯も美味しく、ちょっと不調があればすぐ看護師さんが対応してくれるので安心もできるし、退院するのが寂しかったですね。
看護師さんが常にいてくれる環境は本当にありがたかったです。
今でも入院生活に戻りたいと思っています…w



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│posted at 19:05:08│
2017.05.15(月)
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母の日の告白


昨日、2017年5月14日、世間一般では母の日に私の母の3回忌を行いました。命日は2015年5月12日。
そして母の誕生日も5月17日と近かったので毎年5月になるといろいろ思い出し、考えさせられます。
色々落ち着いてきたのでこの3年間のことを今ここに綴ろうと思います。

文章力がないので支離滅裂で非常に読みにくいかと思いますが、ご容赦ください。


2012年春先より私の母が体調を崩すようになりました。主に自律神経系の症状を訴えていて、年齢も50歳に差し掛かろうとしている時期だったため、最初は更年期障害だろう。ということで治療を受けていました。
しかしどうも様子がおかしいということで精密検査を繰り返し診断された病気が原因不明、現代医学では治癒することの出来ないMSA(多系統萎縮症)という難病でした。
国内では同様の病気を持つ人が1万に程度しかいないそうです。
Wikipediaを見たほうが早いですが…(多系統萎縮症)
簡単に言えば小脳が委縮することにより小脳によって司られる機能、主に運動機能が衰えていく病気ですね。あとは自律神経系の異常ですかね。
大脳自体に影響はない病気のようで、人としての思考はしっかりとしているのにうまく言葉に出来なかったり、母はとてもつらい生活だったと思います。
6月に診断され8月まで入院生活をして、それから自宅介護という形になったのですが、もぅその頃には呂律もうまく回らず、自立歩行もほとんど出来ないという状態でした。
同じような病気にパーキンソン病やALS等ありますが、この病気の場合驚くべき進行の早さでした。



話は変わりますが2012年の秋口には2011年2月に胃がんを手術した祖父も一時は元気に回復したものの、この時期より体調を崩し寝たきりになってしまい、翌12年2月8日老衰のため亡くなりました。こちらはある程度覚悟はしていたものの、仲の良い家族を失う悲しみは想像以上の精神的負担でした。



母の話に戻りますが、医師からは3年で車いす生活、5年で寝たきり生活と告げられましたが、母の場合本当に進行がはやく1年経過したころには自分ではほとんど動けずに、生後半年の赤ちゃん程度しか動けませんでした。

東京で仕事をしていたため、ずっと一緒にいることはできませんでしたが、帰れる暇を見つけてはすぐに帰省する日々を繰り返していました。帰るたびに病気が進行しているのを見て非常にショックを受け精神をすり減らせていました。

平均的な予後は10年くらいだそうで、病気ではあっても家族と楽しく会話したり思い切り笑ったり元気で楽しく過ごせていたので母が病気であることも診断から1年くらい経ったころには受け入れることが出来ました。
最終的に要介護4だったけれど病気としては症状的には進行が早いながらも呼吸器をつけたり,遺漏をしたり等々まだまだそこまで悪いところまでは進行してなくなって、でもこれからどんどん進行していって大変な時期に入っていくものの、まだま元気で生きられるのかなと誰もが思っていました。

私は毎年5月のGWには母の誕生日も近い事もあり、プレゼントを贈っていました。
病気になってから最初の1年目は外出時に履きやすい靴をプレゼントしました。2年目は母が好きだった曲のオルゴールを作ってプレゼントしました。
3年目はガラスに入ったドライフラワーのお花をプレゼントして、父親を通してお花ありがとうって言ってたよ。とLINEをもらった2日後亡くなってしまいました。
2015年5月12日のことでした。病気の診断から約3年でした。

直前のGWに会った時も、病気ではありながらも元気ではいたので突然の出来事で当時は全然実感がわかなかったのを覚えています。
実家に帰ったあとはもぅひたすら号泣していました。

状況的にはいわゆる突然死、前日まで元気だったけれど、朝気づいたらなくなっていたという感じでした。
呼吸中枢に異常をきたして呼吸停止してそのままなくなってしまうケースがあるそうです。


誰ににも負けないくらい仲の良かった家族が短期間で2人も亡くなるのは精神的負担もかなりのものでした。

今までこうして立派に育ててきて頂いた恩返し、というのはちょっと大げさかもしれませんが、私なりの親孝行はしてきたつもりですが、やはりまだまだ生きてくれると思っていたため、突然の出来事に気持ちに整理がついていないく、病みに病んで精神的にはどん底状態になってしまいました。
私の家族は本当に仲が良く、誰よりも両親や祖父母の愛情を受けてここまで育ててもらったコトに本当に感謝しているので余計につらかったです。



その頃の私の状況というのが新卒で入社して数年、うちの会社のとあるプロジェクトの現場トップを任されチーフという役職にあるにも関わらず課長職クラスの仕事や責任まで求められかなりきつかったです。
自分は元々リーダータイプではなく信頼できる人の下でないと能力を最大限発揮できないタイプだと自覚していました。
心療内科に通いなんとか仕事をこなせているという状態でした。


そんな仕事環境が2年続き、母親の死の精神的負担が重なり、心も身体も壊れてしまいました。
うつ病を発症してしまい休職を余儀なくされ2年経った今はだいぶ回復してきていますが、まだようやく減薬に入れるか、といった状態です。


母が亡くなった1年後に甥っ子が生まれ今は1歳と2か月ですが、せめてあと1年生きてくれたら初孫が見れたのに…等々いろいろ考えていくと後悔してることはやっぱりいろいろ出てきますね。
今でも母の遺物、遺品を見るといろいろな感情がこみ上げてきます。調子を崩してそのまま検査入院から入院生活、帰宅したときには既に自由に動けなかったので母の部屋の状態や使っていたもの、これから着ようと思って買った服などすべてそのままの状態で今でもあるので、それを見ては今でも号泣してしまうことが多々あります。



最後に…


長々と書きました長いようで短い3年間でした。
しかし病気を治そうと日々懸命に頑張る母を見て幾度となく私自身も勇気づけられました。
元気になったら色んなところに遊びに行きたいね。と話していたりしたのでそれの夢が叶わず本当に悔しいです。
私たちが小さいころから遊びに出かけるのが大好きだった母は私たちにたくさんの思い出を残してくれました。
私たちが上京した後も心配して幾度となく足を運んでくれて慣れない一人暮らしを助けてくれたり本当に心強かったです。

病気になった後も自分が一番つらく大変なのに、「お母さんのことは心配しなくていいから自分たちの生活を大切にね」と私たちのことを第一に考えてくれている母でした。
私たちにとってはこれ以上ない最高の母親だったと思います。

十分に親孝行出来たかはわかりませんが、こうしてお母さんの子どもに生まれ立派に育ててもらったことは今でも誇りに思っています。
私も寂しがりメンヘラかまってちゃんで他人に迷惑かけることの方が多いかもしれませんが、お母さんから教えてもらった愛情、優しさを大切にして強く生きていきたいと思います。
そしてその優しさを最後まで貫ける強さを身につけたいと思います。


誤字脱字多かったり、支離滅裂な文章になってすみません。読んでくださってありがとうございます。

│posted at 21:22:42│