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2017.05.15(月)
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母の日の告白


昨日、2017年5月14日、世間一般では母の日に私の母の3回忌を行いました。命日は2015年5月12日。
そして母の誕生日も5月17日と近かったので毎年5月になるといろいろ思い出し、考えさせられます。
色々落ち着いてきたのでこの3年間のことを今ここに綴ろうと思います。

文章力がないので支離滅裂で非常に読みにくいかと思いますが、ご容赦ください。


2012年春先より私の母が体調を崩すようになりました。主に自律神経系の症状を訴えていて、年齢も50歳に差し掛かろうとしている時期だったため、最初は更年期障害だろう。ということで治療を受けていました。
しかしどうも様子がおかしいということで精密検査を繰り返し診断された病気が原因不明、現代医学では治癒することの出来ないMSA(多系統萎縮症)という難病でした。
国内では同様の病気を持つ人が1万に程度しかいないそうです。
Wikipediaを見たほうが早いですが…(多系統萎縮症)
簡単に言えば小脳が委縮することにより小脳によって司られる機能、主に運動機能が衰えていく病気ですね。あとは自律神経系の異常ですかね。
大脳自体に影響はない病気のようで、人としての思考はしっかりとしているのにうまく言葉に出来なかったり、母はとてもつらい生活だったと思います。
6月に診断され8月まで入院生活をして、それから自宅介護という形になったのですが、もぅその頃には呂律もうまく回らず、自立歩行もほとんど出来ないという状態でした。
同じような病気にパーキンソン病やALS等ありますが、この病気の場合驚くべき進行の早さでした。



話は変わりますが2012年の秋口には2011年2月に胃がんを手術した祖父も一時は元気に回復したものの、この時期より体調を崩し寝たきりになってしまい、翌12年2月8日老衰のため亡くなりました。こちらはある程度覚悟はしていたものの、仲の良い家族を失う悲しみは想像以上の精神的負担でした。



母の話に戻りますが、医師からは3年で車いす生活、5年で寝たきり生活と告げられましたが、母の場合本当に進行がはやく1年経過したころには自分ではほとんど動けずに、生後半年の赤ちゃん程度しか動けませんでした。

東京で仕事をしていたため、ずっと一緒にいることはできませんでしたが、帰れる暇を見つけてはすぐに帰省する日々を繰り返していました。帰るたびに病気が進行しているのを見て非常にショックを受け精神をすり減らせていました。

平均的な予後は10年くらいだそうで、病気ではあっても家族と楽しく会話したり思い切り笑ったり元気で楽しく過ごせていたので母が病気であることも診断から1年くらい経ったころには受け入れることが出来ました。
最終的に要介護4だったけれど病気としては症状的には進行が早いながらも呼吸器をつけたり,遺漏をしたり等々まだまだそこまで悪いところまでは進行してなくなって、でもこれからどんどん進行していって大変な時期に入っていくものの、まだま元気で生きられるのかなと誰もが思っていました。

私は毎年5月のGWには母の誕生日も近い事もあり、プレゼントを贈っていました。
病気になってから最初の1年目は外出時に履きやすい靴をプレゼントしました。2年目は母が好きだった曲のオルゴールを作ってプレゼントしました。
3年目はガラスに入ったドライフラワーのお花をプレゼントして、父親を通してお花ありがとうって言ってたよ。とLINEをもらった2日後亡くなってしまいました。
2015年5月12日のことでした。病気の診断から約3年でした。

直前のGWに会った時も、病気ではありながらも元気ではいたので突然の出来事で当時は全然実感がわかなかったのを覚えています。
実家に帰ったあとはもぅひたすら号泣していました。

状況的にはいわゆる突然死、前日まで元気だったけれど、朝気づいたらなくなっていたという感じでした。
呼吸中枢に異常をきたして呼吸停止してそのままなくなってしまうケースがあるそうです。


誰ににも負けないくらい仲の良かった家族が短期間で2人も亡くなるのは精神的負担もかなりのものでした。

今までこうして立派に育ててきて頂いた恩返し、というのはちょっと大げさかもしれませんが、私なりの親孝行はしてきたつもりですが、やはりまだまだ生きてくれると思っていたため、突然の出来事に気持ちに整理がついていないく、病みに病んで精神的にはどん底状態になってしまいました。
私の家族は本当に仲が良く、誰よりも両親や祖父母の愛情を受けてここまで育ててもらったコトに本当に感謝しているので余計につらかったです。



その頃の私の状況というのが新卒で入社して数年、うちの会社のとあるプロジェクトの現場トップを任されチーフという役職にあるにも関わらず課長職クラスの仕事や責任まで求められかなりきつかったです。
自分は元々リーダータイプではなく信頼できる人の下でないと能力を最大限発揮できないタイプだと自覚していました。
心療内科に通いなんとか仕事をこなせているという状態でした。


そんな仕事環境が2年続き、母親の死の精神的負担が重なり、心も身体も壊れてしまいました。
うつ病を発症してしまい休職を余儀なくされ2年経った今はだいぶ回復してきていますが、まだようやく減薬に入れるか、といった状態です。


母が亡くなった1年後に甥っ子が生まれ今は1歳と2か月ですが、せめてあと1年生きてくれたら初孫が見れたのに…等々いろいろ考えていくと後悔してることはやっぱりいろいろ出てきますね。
今でも母の遺物、遺品を見るといろいろな感情がこみ上げてきます。調子を崩してそのまま検査入院から入院生活、帰宅したときには既に自由に動けなかったので母の部屋の状態や使っていたもの、これから着ようと思って買った服などすべてそのままの状態で今でもあるので、それを見ては今でも号泣してしまうことが多々あります。



最後に…


長々と書きました長いようで短い3年間でした。
しかし病気を治そうと日々懸命に頑張る母を見て幾度となく私自身も勇気づけられました。
元気になったら色んなところに遊びに行きたいね。と話していたりしたのでそれの夢が叶わず本当に悔しいです。
私たちが小さいころから遊びに出かけるのが大好きだった母は私たちにたくさんの思い出を残してくれました。
私たちが上京した後も心配して幾度となく足を運んでくれて慣れない一人暮らしを助けてくれたり本当に心強かったです。

病気になった後も自分が一番つらく大変なのに、「お母さんのことは心配しなくていいから自分たちの生活を大切にね」と私たちのことを第一に考えてくれている母でした。
私たちにとってはこれ以上ない最高の母親だったと思います。

十分に親孝行出来たかはわかりませんが、こうしてお母さんの子どもに生まれ立派に育ててもらったことは今でも誇りに思っています。
私も寂しがりメンヘラかまってちゃんで他人に迷惑かけることの方が多いかもしれませんが、お母さんから教えてもらった愛情、優しさを大切にして強く生きていきたいと思います。
そしてその優しさを最後まで貫ける強さを身につけたいと思います。


誤字脱字多かったり、支離滅裂な文章になってすみません。読んでくださってありがとうございます。

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